白鳳4年(675年)、天武天皇創建。
祭神は、水に関する一切をつかさぞる罔象女神(みづはのめのかみ)。
神武天皇が、戦勝祈願した地という伝承や天武朝以降、たびたび行われた吉野行幸の離宮後地説もあり、歴史の重みを感じさせてくれます。
四季折々の自然に彩られた丹生川上神社は、参拝に来られる人たちの心をきっと癒してくれます。
住所 |
〒633-2431 奈良県吉野郡東吉野村小968
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連絡先 |
0746-42-0032 (7:30 ~ 17:00)
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ホームページ |
丹生川上神社のご由緒について
当神社の御祭神「罔象女神(みづはのめのかみ)」は、水一切を司る神様で水利の神として、又は雨師の神として信仰され、五穀の豊穣に特に旱続きには降雨を、長雨の時には止雨を祈るなど、事あるごとに心からなる朝野の信仰を捧げ、水神のご加護を祈ってきました。
今を去る事千三百三十年余り前、第四十代天武天皇白鳳四年(675年)「人聲の聞こえざる深山吉野の丹生川上に我が宮柱を立てて敬祀らば天下のために甘雨を降らし霖雨(長雨の事)を止めむ」との御神教により創祀せられ、雨師の明神、水神宗社として朝廷の崇敬は殊の外篤く「延喜式」(927年)には名神大社に列せられ、又平安時代中期以降は、祈雨の神として「二十二社」の一つに数えられました。祈雨には黒馬を、止雨には白馬又は赤馬を献じ朝廷の特に崇敬する重要な神社でありました。
763年より応仁の乱の頃までは朝廷よりの雨乞い、雨止めの奉幣祈願が九六度されていることが記録にみられることからも当社がいかに重要な神社であったかが伺えます。しかし、都が京都に遷り戦国時代以降はそのような祈願も中断され、丹生川上雨師明神社もいつしか蟻通神社と称され、ついには丹生川上神社の所在地さえ不明となってしまいました。
明治維新となり、丹生川上神社は何処かという研究調査が行われ、明治四年丹生村(下市町)、続いて明治二十九年川上村の神社が、夫々有力視され官幣大社丹生川上神社下社、上社とされました。蟻通神社こそが丹生川上神社だと大正十一年、当村出身の森口奈良吉翁の精緻な研究調査により丹生川上神社中社として官幣大社に列格され、ここに従来の二社は三社になったが、官幣大社丹生川上神社としては一社であります。
そこでこの神社の社務所を当社に移して、下社、上社を統括して祭務を行ってきましたが、戦後神社制度の変遷により今日では三社別々の神社となったが、当社は「丹生川上神社」と登記されています。
本殿は江戸時代文政十二年(1829年)の建築で、東吉野村の文化財に、又瑞垣内にある灯篭は鎌倉時代の弘長四年(1264年)銘で、国の重要文化財に指定されています。
石燈籠 重要文化財 (丹生川上神社境内)
弘長4年(1281)2月9日建立。栄国人の名工・伊行吉の作。 高さ2.6m、笠幅73cmの優美なその姿は、東大寺三月堂の燈龍に次ぐ完全無欠の名作と賞せられている。
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